スターリンが夢見たモスクワ巨大都市計画【ソビエト宮殿】
スターリンが夢見た「ソビエト宮殿」(Дворец советов、Palace of Soviets)そしてモスクワとはどんな世界だったのでしょうか?
まずこの計画についての背景、流れを簡単に書いてみます。
1931年7月18日、ソ連共産党の党大会議場となる「ソビエト宮殿」計画、イズヴェスチヤ紙に国際建築設計競技(コンペ)の要項が掲載。
1932年4月23日、ソ連共産党中央委員会は『文学および芸術に関する組織の構造改革について』と題する文書を採決しました。
この採決によって、芸術家が自主的に作った組織は違法となり、自由に作品を作ることができなくなりました。
個人も組織も、国の管理下におかれたのですね。
もちろん、建築の分野でも例外でなく、1932年7月までに、建築家の集団や組織は全て廃止。
政府組織「ソビエト建築家組合」が設立され、政府が資金を出し、建築に関する検閲を行うようになりました。
これで完全にソビエト連邦誕生時から世界に影響を与えたロシア・アヴァンギャルド(авангард)、構成主義は、スターリンの政治の力に息の根を止められた形になりました。
翌1933年、ソビエト建築アカデミーが創立、これがスターリン建築の時代の始まりとなりました。
それは、宗教・芸術の打倒を掲げ、芸術の伝統や古い観念よりも生産効率を高める実践的運動を進めることであり、ソビエト建築史の大きなポイントになっています。
こちらは、「ソビエト宮殿」の完成予想図。
・構成主義者: 『オサ』のリーダー、モイセイ・ギンズブルクの案