ソビエト宮殿の建設〜現在まで
1940年段階のソビエト宮殿の建設状況宮殿はモスクワ最大の教会であった救世主ハリストス大聖堂の敷地に建てられる予定でした。
設計コンペが始まる前の1931年7月には、すでにソビエト宮殿建設のために教会の解体作業が始まり、1931年12月5日には爆破作業によって教会の構造体は完全に破壊され更地となりました。
しかし、計画、建設作業は予定通りに進みませんでした。
一つ目も問題は、敷地の隣を流れるモスクワ川からの地下水の浸出でした。
地下水によって、掘削されていた広大な教会跡地に水が上がってしまい、たちまちよどんだ水溜りとなってしまうのでした。
しかしソビエト宮殿建設は、政府の命令で最重要事業となり、DSと呼ばれる建築用鉄材など専門の建材が開発、建設のための鉄道支線も作られ、急ピッチで問題は解消されていきました。。
そして1939年には基礎になる部分はかなり出来上がっていました。
二つ目の問題は戦争です。
第二次世界大戦期、1941年のバルバロッサ作戦に始まる独ソ戦によりモスクワへのドイツ軍の攻撃が始まり、建設作業は停止されました。
途中まで組みあがった鉄骨は、モスクワ周囲への要塞線建設や鉄道橋建設のために供出するべく解体。
以後基礎建設工事は再開されることはありませんでした。
しかし1940年代末まではまだ建設計画は残っており、スターリン・ゴシックの超高層建築を設計した他の建築家らも、完成予想図にソビエト宮殿の遠景を書き込んでいました。
その後、結局、ソビエト宮殿が実際に建設されることはありませんでした。
1953年のヨシフ・スターリン死後、ニキータ・フルシチョフやゲオルギー・マレンコフはついに「ソビエト宮殿計画」を白紙に戻しました。
唯一完成していた豪華な地下鉄駅はクロポトキンスカヤ駅と改名。
空き地となって穴が掘られていた建設用地は、1958年から工事が行われ、直径129.5mもある世界最大級の野外温水プール「モスクワ」(Бассейн Москва)と生まれ変わりました。
そしてソ連崩壊後、ロシア正教、大聖堂の再建機運が高まり、温水プールは閉鎖。
1995年1月7日にモスクワ市がイニシアチブを取り、巨費を投じて宮殿基礎やプール施設の撤去と大聖堂再建をスタート。
2000年8月19日に「救世主ハリストス大聖堂」が完全に元通りの姿が蘇って今に至っています。
(「救世主ハリストス大聖堂」の復元は、A.デニーソフ建築スタジオが手がけた)