ソビエト宮殿デザイン案の変遷

コンペで最終的に勝ち残ったイオファン・シチューコ・ゲルフレイフの案はコンペ初期(1931年)、古典主義的な長方形の中庭の両端に二つの構成主義的な大会堂が建ち、中庭中央に腕を振る労働者の像が乗った古典主義的な巨塔が立っていた。
大会堂とモニュメントな像が別々になったいるデザインです。

 

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しかしこの案は、コンペ途中でウラジミール・ゲオルギエヴィッチ・ゲルフレイフ(Vladimir Gelfreikh)やウラジミール・アレクセイエヴィッチ・シチューコ(Vladimir Schuko)ら新古典主義建築家が合流して練りこまれ、大きく姿を変えていきました。

 

1932年のデザイン案では、二つの大会堂はひとつの円形状の建物(2万人収容の円形大ホールと6千人収容の小ホール)になり、それを土台として頂上部に18メートルもの巨大な「解放された労働者」モニュメントを掲げるというものでした。

 

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1933年のデザイン案では、土台建物部分が、円形から角ばったデザインに変更されました。
そして頂上部のモニュメントは、50〜75メートルのレーニン像に設計変更。

 

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1934年に公開された最終的な案では、頂上部には高さ80mの巨大なウラジーミル・レーニン像が立つ姿、土台部分はまた円形へデザイン変更されました。
まさにウェディングケーキのようです。

 

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80メートルのレーニン像の頂上までの高さの合計は415mを計画。
エンパイア・ステート・ビルディングより高い、当時の世界最高の建築物となる予定でした。
宮殿には大きさの異なる大会堂が二つ(主となる大会堂は座席数が21,000人分で、天井高は100m、直径160mという途方もない規模だった。小さい会堂も6,000人分の座席をそなえていた)と、いくつかの博物館・美術館が入居し、低層階と地下は自動車などからの乗降のための場所、倉庫、機械設備室が配置されていました。

 

デザインは変化していきましたが、一貫していたのは、宮殿は天に向かって伸びる巨大な梯子のような印象を与えるよう意図されていたということです。

 

宮殿の主目的は全国ソビエト大会(Congress of Soviets)の入居であり、ゆくゆくは世界ソビエト大会の開催も念頭にあったといわれています。