ソビエト宮殿コンペ開催

そして1932年春に15組の建築家を招待したコンペ、1932年夏から1933年春にかけての5組によるソビエト宮殿の建築設計競技(コンペ)が行われました。

 

こちらが、ソビエト宮殿の最終イメージ案。

 

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ソビエト国内外の多くの建築家やさまざまな建築集団が参加。

 

ソビエト国内からは、ロシア構成主義の建築家コンスタンチン・メーリニコフや、研究所「ヴフテマス」を中心に集まった構成主義的な『アスノヴァ』(新建築家協会)、これに反発した社会学的・地域計画的アプローチを主とする『オサ』(現代建築家協会)、スターリン主義の先駆となる『ヴォプラ』(全ロシアプロレタリア建築家協会)などからの応募があった。

 

国外からはル・コルビュジエ、ヴァルター・グロピウス、エーリヒ・メンデルゾーン、ハンス・ペルツィヒ、オーギュスト・ペレといったモダニズム建築家たちが多数参加。

 

1932年春に15組の建築家を招待したコンペ、1932年夏から1933年春にかけての5組によるコンペがの末、1933年5月10日にボリス・イオファンらの案が選ばれました。
(160のエントリー、112のプロジェクト提案、そのうち24の提案が外国の参加者との説もあり)

 

バベルの塔や天へ登る梯子の形を思わせる装飾的で権威的な外観で、頂上に高さ100mのレーニン像を掲げた415mの世界一の超高層ビルといった壮大なもの。

 

スターリン、そしてソビエトは、この計画を思想とともに本当に実現しようとしていたのです。

 

救世主ハリストス大聖堂のある場所に「ソビエト広場」を作りそこに建築する予定でしたから、実際、救世主ハリストス大聖堂(Храм Христа Спасителя)は1931年12月5日に爆破されてしまいました。(現在の救世主ハリストス大聖堂は再建されたもの)

 

 

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救世主ハリストス大聖堂爆破当時の動画はこちら。

 

 

実現していたら、どんなものになっていたのでしょうね。